「世襲の職業はいやなものだね」 天皇明仁と「平成流」の原点
学習院時代から今上天皇を見続けてきた学友にして、ジャーナリストが綴った「人間・天皇」。

第一章 父と子

陛下との二人三脚は実行されている

 明治と昭和の世代交代は確実に進行している。天皇ご一家の場合も例外ではない。明治三十四年四月二十九日生まれの陛下◆註1と昭和八年十二月二十三日生まれの皇太子◆註2との親子関係も、両者の仕事分担が深化する形で平衡を保つ姿に既に移行している点に、国民は気づいているだろうか。

 一世一代の天皇業であるが、いま、二人三脚の関係で、天皇と皇太子は緊密な連携作動を実行している。やがて絶対に回避できない事態が訪れる際、万全の信頼と安心感をもって、この親子は日本においてもっとも儀式的な継承を果たすだろう。生存中に天皇が退位し、皇太子にじょうじゅぜんする可能性は少ない。皇室典範第四条「天皇が崩じたときは、こうが、直ちに即位する」の規定が発動することになる。

 天皇のほうぎょという瞬時の出来事によってせんの儀◆註3が同時進行し、皇太子明仁親王は第百二十五代天皇の座に就く。あっという間である。国民は大いなる悲しみと追想のさなかに、動かし難い現実を受容しなければならない。多くの点において、今上天皇とは異なる人格をもつ天皇としての登場がそれだ。

 いま、果たして、国民の何割が、皇太子明仁親王について考察しているだろうか。国民のどれほどが、この未知数の要素を多くかかえる皇太子について、適確な知識と、それによる判断材料を持ち得ているだろうか。

 アメリカ訪問旅行をえて帰国された天皇、皇后両陛下は五十年秋、日本の代表的な報道関係者に会われた。テレビが初めて記者会見に臨まれた陛下の肉声と表情を放映した。ご訪問に先立って外国報道機関の数人に別個に会見の機会を与えられたことに対するお返しの意味があった。筆者はいま、一連の天皇発言から一例を引用して、天皇と皇太子との比較を試みる。

 陛下は「尊敬する人物」の名を問われて、まれすけ陸軍大将を挙げられた。乃木が学習院院長だったころのくんとうの数々を思い出されての発言だと解される。日露戦争後、乃木は高潔な人格と瞑想的な英雄精神によって、大山いわおや黒木ためもと、児玉源太郎よりも強い印象を世界に与えた。明治天皇崩御に殉死したことで臣下の忠義、彼にまさるものはないともてはやされた。

◆註1…昭和天皇のこと。以下、本書における「陛下」は原則として、昭和天皇を指す

◆註2…今上天皇のこと。以下、本書における「皇太子」は原則として、今上天皇を指す

◆註3…皇位を引き継ぐための儀式。「三種の神器」の承継などが行われる

乃木大将より東郷元帥に傾倒

 皇太子は、しかし、乃木に関する国民的な愛情の発露とは無縁である。学習院初等科に在学した幼少のころから、東郷平八郎元帥がむしょうに好きであった。当時、学習院院長が日露戦争に従軍し、日本海海戦に若き将校として参加した山梨勝之進海軍大将であった影響も考慮に入れるべきかもしれない。だが、乃木の作戦上の拙劣さ、それによる旅順攻略期の恐ろしいまでの兵士の損失の堆積は皇太子の精神構造にあっては、あるいは納得しえない人物にうつるのかもしれない。半面、なんとなく開明的な東郷への傾倒が強い。

 ただし、皇太子も全面的に乃木を否定するわけではない。皇太子は乃木の文学的素養の深さには第一人者の地位を与えてはばからない。ことに、乃木の漢詩の才にはひたすら脱帽する。昭和期に出現した多くの将星が残した漢詩を乃木のそれと比較して、前者の下手くそさ加減にあきれる思いを深めるのである。このあたりは戸川幸夫の評価よりも、どちらかというと、司馬遼太郎の下す評価◆註4に、皇太子のそれはより近いといってよいだろう。

 皇太子は、いわばタブーに挑戦する姿勢がある。全民族のエネルギーが新興国家の消滅か残存かの瀬戸際で単純明快に発露された明治時代に対しても、冷徹な眼を注ぐ人物であり、この点陛下の人格にあふれる明治天皇への信仰に近い姿勢とはきわだった差異を認めうる。一例として、皇太子の明治批判に「みんぎゃく事件」がある。

 閔妃事件については別途触れるつもりだが、簡略に記すと日清戦争直後の明治二十八年十月八日、三浦ろう(観樹)全権公使が京城駐在の警察官、守備軍、韓国側の訓練隊、日本人浪士らを指揮して李王朝の実力者閔妃(国妃めいせい皇后)を暗殺した事件である。筆者が最近集めた資料によると、暗殺の筋書は井上かおるが伊藤博文の了解を得てこしらえ、実行行為者に同じ長州人脈の三浦観樹将軍を充てて実施した国家的犯罪行為だったといえよう。これが朝鮮半島に覇権を唱えるロシアと日本との争いのやむをえない副産物だったとしても、その後の強引な処理(全員無罪赦免)をひっくるめて考えるならば、日本が国家意思で行った重大な犯罪行為であることをいんぺいできない。

 皇太子が閔妃事件にいまなお心を痛めている事実を韓国人及び在日韓国人が知れば、恐らく驚喜するに相違ない。いま一つ、明治の国家意思で行われた政策で、いまなお皇太子を苦しめている事例がある。

 琉球処分──である。明治政府による琉球王国の武力による統合を云々する場合、日本本土の国民は知らず知らずのうちに〝お布施〟をほどこしてやったのに……というこだわりを抱く。沖縄の祖国復帰に当たっても、沖縄を差別的にみるこだわりが強く見られ、現在もなお偏見を抱きやすい。皇太子は、実は昭和三十年代末ごろから、沖縄と本土の相互理解を深めるうえで、有力な実践家だった。皇太子が果たしてきた役割は、沖縄県民の彼への手厚い評価を知るとき、偉大であったとさえ言いうる。この点についても、いずれ触れるテーマになるだろう。

◆註4…乃木について、戸川は『人間乃木希典』でその武士道精神を讃えているが、司馬は『坂の上の雲』などで愚将として描いている

悩み多き青春時代を送られる

 天皇陛下は近代日本の帝王学によって育成された人格に加えて、激動の昭和を半世紀、乗り切ってこられた。陛下の苦難は国家の苦難であったろう。国民の苦しさは陛下のお苦しみであった。両者の間に日本が激動の時代を歩いてきた共通体験がある。

 皇太子が陛下と同じ形式の人生を経験されたのは明治憲法の死滅までである。新憲法の誕生とともに中学一年生になり、思春期以降新しい価値観と仕組に包まれて成長した。東宮御学問所に代わって、学校教育の場で勉強した。

 青年皇太子は人並みに悩み多い学生生活を送っている。だが、小泉信三や安倍よししげら当時の最高クラスの師や、敬虔なエリザベス・グレイ・ヴァイニング夫人が見守ったし、久松潜一、坪井忠二、小谷正雄、もろはしてつら一流の教授が中学時代から直接指導した。人材に恵まれた皇太子だった。明仁親王殿下は大学一年生の晩秋、立太子礼◆註5を挙行され、公務に就かれている。エリザベス英女王戴冠式に天皇の名代として加わったのが最初の対外的な仕事だった。このとき、皇太子は敗戦国のみじめさを一身に浴びた。

 正田美智子さんとの結婚を境にして、国民は皇太子を判断する手がかりのうえで、マスコミによって色づけされた情報の過度な流出をまともに受ける形になった。関心は美智子妃に移行し、皇太子は裏側に回った観がある。その結果、国民の判断が固定観念化している危険性が強い。今後、各論に入って、知られざる皇太子像を引っ張り出してみたいと考えている。

◆註5…公式に皇太子を定める儀式

皇太子主催・企画による父陛下のお祝い

 寒波の襲来で冷え込みが一段と厳しさを増していた昭和五十一年十二月二十七日の午後、東京・元赤坂の東宮御所で、皇太子主催、各宮家総出で企画された「天皇陛下ご在位五十年の記念祝会」が天皇、皇后両陛下をお招きして催された。こよみの上でいえば、二日前の十二月二十五日、「昭和」は満五十年を迎えた。

 皇太子ご夫妻が練りに練り、秘中の秘として企画され、ご両親、というより父陛下のお祝いに持ち出された目玉商品は、薄い藤紫色刷りの式次第に盛り込まれていた。

 狂言「二人袴」と能楽「羽衣」の特別興行が、皇太子がこのときのために用意された出しものであった。喜多流と宝生流の家元を主にこんぱるの太鼓打ちも加えた出演者が召し出された。東宮御所表御座所の大部屋二つを打ち抜き、西側に舞台が特設された。手ぜまな急ごしらえの舞台に対して、客席の最前列に両陛下のお席、東宮ご一家、常陸宮ご夫妻、秩父宮妃、高松宮ご夫妻、三笠宮ご一家が和気あいあいと席を占められ、特別招待客や宮内庁の高官が居並んだ。

 喜多の初代、喜多七太夫おさよしは金春の門人だったが、のち独立し、豊臣秀吉に仕えたといわれる。大坂夏の陣に武功があり、落城後大和に逃れたが、能楽の技を買われて徳川幕府に召されて江戸初期を飾った人物。

 能楽五流の一である宝生は蓮阿弥を中興の祖とする。観阿弥の兄宝生の後釜だったが、前身は大和猿楽の一派であり、室町末期には北条氏に仕えた形跡がある。やはり江戸幕府の扶持を受けて栄えた。観世が今回召されなかったのは、かつてしばしば諸々の機会に登用されているためだった。

 狂言「二人袴」は各流がこなす。筋立ては明るい笑いを誘うもので、婿と親二人が舅の家へ行き、一着の袴で交代で出る。しかし両人一緒にと望まれ一着の袴を裂いて二人ではき、舞いを舞う。最後に舅と三人連舞になると舅が「ご両人の袴のうしろがない」という。

 世阿弥作「羽衣」は、天降った天女が水浴している間に羽衣を盗まれて天に帰れず、しばらく人妻となって暮らすうちに羽衣を探し出して昇天する「羽衣伝説」を上品に書きかえたものだ。漁夫の白竜に哀願して踊るあずまあそびの舞いが中心である。

伝統文化の保護育成は天皇家の役割

 心尽くしのお祝いを陛下は大変に喜ばれたようだ。皇太子が父親を祝うのに能狂言をもってしたことにかつもくしたい。概念的に国民は、天皇家の役割が伝統文化の保護育成と継承にあると思っているが、それはその一例と解してよい。鎖国時代に徳川家の保護を受けた能楽はいま、皇太子の一声によって、好機会を得たと言えなくもない。出演した人々は日ごろの自主公演とは違った意識を持てたと思う。いわばパトロンの希望を受けて芸を見せるという、芸人本来の欲求が満たされたはずである。

 かつて両陛下のお祝いごとに召された講釈師宝井馬琴、落語家三遊亭円生らの話を聞くと、大変に緊張し、かつまたうれしいものであるらしい。円生は筆者に「目線が両陛下と遭っちゃいけないから、失礼とは思ったが高座並みにこちらの位置を高くしていただいた」と語ったことがある。馬琴は「寛永三馬術」を語る前に、「昭和にもがきがおります」と口上を述べ、かつて習志野の陸軍の馬丁だった某が廃馬と決まった愛馬の引退のはなむけにと愛宕あたごの石段を昇り降りした実話を語り、それを聞き伝えられた摂政時代の陛下が「惜しい」といわれた一言で廃馬から急転、保護馬として長寿をまっとうした話をした。陛下は忘れられていたようだが、そのとき馬琴は「もっとよく調べまして、将来ご披露します」と約束した。

 これが馬琴師匠自身の励みになった。彼は徹底的に調べ、この馬丁にロサンゼルス五輪大賞典飛越競技優勝、硫黄島で戦死した西竹一大佐、同じく野外騎乗の種目で優勝を目前にしながら愛馬の極端な疲労を知って下馬し、くつわをとって歩いてゴールし、愛馬精神を謳われた俊三中佐を加えて「昭和三馬術」の新作をものにし、五十年、三越劇場で初演している。城戸さんは五十一年末、日本馬術連盟が主催した米寿祝賀会を受けたばかりだが、初演の際に招かれて馬琴の語りくちに耳を傾けていたのが印象的である。皇室の方々とのさりげない触れ合いが、大きく何かを産み出すきっかけになった好例であろう。

父陛下に疑問を覚えたことも

 戦前、皇太子は三歳の折からご両親陛下の許を離れて厳格な教育の場に身を置いた。両陛下に会う機会は一週間に一回と限られた。第二次世界大戦はこの父子をさらに引き離し、皇太子継宮明仁親王は沼津、日光、奥日光湯元へと転々疎開した。それでもわずかな父子の邂逅が皇太子にとっては、父を知り天皇たるの道について教えを受ける場になった。はだから膚に伝わる直伝の触れ合いこそ、皇太子にとって最も重要な帝王学の修学の場であったことは、側近に漏らされるお言葉のはしばしからも十分にうかがい得る。

 こういうことがある。

 皇太子は植物の面では樹木の分野の方がより熟知した世界であり、草とかシダ類とかでは陛下の方がお強い。那須御用邸で父子そろって散策されていたとき、皇太子が「おもうさま、これはなんでしょう」と小ぶりの草について質問した。陛下は「多分△△だろう」といわれたが、侍従に持たせた図鑑を広げてさまざまに調べ、自分の結論としては△△だろうと考える、との見解を述べられた。

 所変わって軽井沢のプリンスホテルの庭。まだ幼稚園児童くらいの浩宮が「おもうさま、この花はなんというの」と父である皇太子に質問した。変哲もない野菊の白い花にすぎなかった。皇太子は△△ギクと答えたが「待てよ、キク△△だったかもしれない。調べてくるからちょっと待って」とその場に浩宮を残し、大急ぎで建物に駈け込んだ。書斎で図鑑をめくって戻ってきた皇太子は息子に「キク△△だったよ」と答えた。

 この異なる場面における三代の父子間のやり取りを目撃したのは一人の侍従である。「父子そっくりだ。やがて浩宮さまも同じような反応をする父親になるだろう」と内心思って感心した。父子相伝の典型例だと、かの侍従はいうのである。まさに、父陛下と息子皇太子は、こうした律義な、というか、科学的な正確さを求めるというか、このような場面では同一人物と思うぐらい相似している。

 皇太子は一時期、父陛下の歩まれた道に疑問を覚えたことがあった。木戸日記◆註6など多くの人が残した文書を読み、父陛下の気持ちをつかもうとした。ついに、西園寺公望秘書の男爵・原田熊雄日記から父陛下が一貫して平和と国民の幸福を追求してこられたと納得した。「私は陛下から最も影響を受けている。それに比べて、母陛下からの影響は少ない」。このような心境を漏らされたことがあるという。

◆註6…昭和天皇の側近の一人、木戸幸一が残した日記

第一章 父と子(2)

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