哲学者・鶴見俊輔は戦前のアメリカで何を見たのか――
一九三〇年代後半米国に留学し,三〇年後そのインドシナ介入に対し積極的な反戦活動を進めている著者は,北米の民主主義的伝統を再考しつつ,それを黒人や原住民の側からとらえ直すことを試みる.文芸批評家,詩人,SNCCの活動家,黒豹党の行動と思想を追求する中で著者の北米体験は深刻な反省を強いられ,新たな米国像が浮彫される.

序 章 ケムブリッジ──東ボストン

 記憶はこおりついているような時もあるし、それが何かの風のふきまわしで突然とけはじめることもある。

 一九四二年の三月二四日、(この日付けはちがっているかもしれない。というのは、メモも何も、なくなってしまっているからだ。)私が下宿でねむっていると、扉があいて、三人の男が入って来た。

 うすぐらかったので、よく見えなかったが、かなり立派な背広を着た人たちで、すぐに、

 「連邦捜査局(FBI)のものだ。」

と名のった。

 私はベッドからおきて、ゆかの上にたったが、かれらとむきあった時、自分の両足がちょうどひざの関節のところでたがいにかちかちと音をたててぶつかりあうのを感じた。その音は、体の内側をとおって、自分の耳にまできこえてくるから、外にいるかれら三人にはきこえないと思うことで、すこし安心した。いくらか、まだ虚勢を張ることが、できそうに思えた。しかし、このふるえる足で歩くことには自信がなかったし、何か話そうとすれば、声がふるえるのではないかと心配だった。だまって、そこにたって、かれらの言い分をきいていた。

 その時から三十年たっているから、かれらが何を言ったか、はっきりおぼえているわけではないが、

 「この部屋の中をしらべたい。」

と言ったようだ。

 本箱を見て、かれらはドイツ語の字引を見つけた。

 「こいつは、この字引を使って、ドイツと通信しているのではないか。」

と、ひとりが言った。この言葉は、いくらか、私をくつろいだ気持にさせた。学生の部屋でドイツ語の字引を見つけて、それを特別のことと思うなんて、あまり考え深くはないな。

 もうひとりが机の上をしらべていて、

 「ここにイエスの像があるのはへんだ。この男はアナキストのはずだ。君は、神なんて信じていないだろう。」

 それは黒檀でつくった十字架のイエスで、日本をはなれる時に、牧師からおくられたものだった。アナキスト(無政府主義者)はエイシイスト(無神論者)と考えるわけか。そのことについて何か言いかえそうと思った時、急に、なぜ自分が今、部屋にふみこまれたかが、わかった。

 前の年の一二月七日(日本では一二月八日)、真珠湾攻撃とともに、日本と米国との戦争がはじまった。治安をみだすものの他は、敵性国人をつかまえることはないと検事総長は言った。日本人の留学生は、つかまえない方針のようだった。

 一時は、すぐにつかまると思って、ノートの類(日記など、なくなるといやだと思ったもの)を友人の部屋にあずかってもらっていたが、四カ月近くたって何もないので、つい二、三日前に、友だちのところからもってかえって来たところだった。それを、今、私の目の前で出して、日本から来た手紙などと一緒に、えりわけて、もってゆこうとしている。いれものがないので、

 「このスーツケースにいれてもっていっていいか。」

と、柳行李をさして言っている。いやだというわけには行かない。結局スーツケース二個分の書類をもってゆくことになった。その中には、書きかけの卒業論文も入っている。

 スーツケースにいれおわると、外はまっくらになっていた。

 「では、一緒に行こう。」

 やはり、つれてゆかれるのか。

 「いつまで?」

 「それは、わからない。」

 去年の秋から住みついたところだが、三階の屋根裏部屋で、天井がななめにベッドの上にたれさがり、部屋全体の体はL字状をしていて、なつかしい場所だった。ベッドのわきの窓に、牛乳の四合いり大びんがおいてあって、まだ、三杯分のこっている。私は、朝は、外に出ないで、ここで牛乳を一杯のんでから勉強にかかることにしていた。

 「牛乳がのこっているので、のんでから行く。どうですか。」

とすすめると、

 「いらない。」

という返事だった。黙って、たてつづけに三杯、ゆっくり時間をかけて牛乳をのんだ。すると、さっき、両方のひざがあれほどぶつかりあっていたのに、今はもう、ぶつかっていない。そうか。はじめに、ふるえるだけふるえておけば、おちつくものなのだ。

 三人の男にともなわれて、三階から、暗い階段をおりていった。玄関に、この下宿の女主人のおばあさんがたっていた。

 その後三十年、私は、このアーヴィング・ストリート四三番地の下宿に帰ったことがない。私の三階の部屋のまむかいにいたジョン・ストヴェルというカナダの経済学者から近ごろきいたところでは、このおばあさんは、近所の人から敵国人を下宿させたことについて何かいわれると、おこって私のことを弁護したそうだ。私がそこにいた時には、愛想のいい人でもなく、下宿料をはらいにゆく時の他には、ほとんど口をきいたこともなかったのだが。もうなくなったそうだ。

 自動車は、黒のビューイックで、大型のなかなかいい車だった。

 「なかなかいい車だろう。」

と、ひとりが言った。私は、さっきミルクを三合のんだのに、腹がへっていた。このまま、留置場に入れば、おそらく明日の朝まで食事にありつけないだろう。自動車は、私の住んでいたケムブリッジをはなれて、ボストンに向っている。腹がへったというと、ボストンの市中のどこかでとめて、飯を食わせてくれた。サンドイッチだが、何のサンドイッチだったか、今は思いだせない。うまいサンドイッチだったと思う。私が、そのころ、学生として毎日食べている程度の晩飯よりうまかった。うまい、というと、

 「おれたちは、そうとううまいものを食っているのさ。」

とひとりが言った。これは、どうも、あまりうまくできすぎたせりふで、ここに書くのが少しはずかしいのだが、たしかにそう言ったと、私はおぼえている。この三十年間、この一日におこったことを、何回か思い出して復習してきた。その間に頭の中でつくりかえてきたところもきっとあるとは思うのだが。

 私がサンドイッチを食べているあいだ、FBIの三人は、ビールをのんでいた。

 もう一度、車にのりこみ、ボストン市中の大きな建物につれてゆかれた。もうずいぶんおそい。夜の一〇時ころではなかったろうか。五階か、六階か、とにかく、わりあいに高いところにつくと、それは連邦警察の事務所なのだろうが、ひろい事務所のすみのほうにタイピストの娘がひとりのこっているだけだった。

 そこではじめて、私は、両手を高くあげろと言われ、体にさわられた。武器をもっているかどうか、たしかめるためだったのだろう。形だけのものだったが、それでも、わきの下にさわられると、くすぐったいものだ。私が笑うと、その声が、ひろい事務所の遠くまでひびき、むこうにいるタイピストが、やはり笑っていた。

 もう一度、さっきのビューイックにのせられて、留置場につれてゆかれた。あとでわかったことだが、そこは東ボストン移民局だった。外国人を収容するには、普通の留置場ではなく、移民局の一部を使うので、そこには移民法違反だけでなく、殺人犯、さぎ犯など、いろいろの外国人がいた。だが、すでに深夜に近く、それらの人びとに会ったのは、あくる日のことだ。もうみんなねており、上下二段仕立ての寝台がならんでいる中の一つをあたえられた。まっくらで、そばにどのくらいの人がねているかも、わからない。便所だけにあかりがついていた。そこにゆくと、まぶしくて、そのまぶしさが、へんにいきいきとしていた。

 寝台の下の段にねころんで、今日おこったことを考えると、さっきこの移民局の金網のところでわかれた三人の男が、こどもの時から何度も洋画で見た「Gメン」というものなのだということを思いだした。背広を着ていたが、それぞれピストルをもっていたにちがいない。そのことにもっと早く気がついたら、もっとおそろしかっただろう。空想的なことが自分におこると、想像力はあまり自由にはたらかないものだ。ねむれそうな気がしたし、ねむれそうなのが、うれしかった。もう勉強しなくてもいいのだという解放感があった。

序章 ケムブリッジ――東ボストン(2)

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